山々に囲まれた盆地に位置する、神奈川県・秦野。渡辺望は子どものころ、山へとつながる丘の中腹で、変化に富んだ地平線を観察しては、それを絵に描いていた。急な勾配とそこからの風景は、スタジオジブリ作品をはじめとする日本アニメの中で数多く描かれる。まさにシフトする視点とパララックスの世界観だ。渡辺は眼下に散りばめられた光と、回転する夜空に広がる星座との地理学的な関係性について想いを巡らせる。その流動的な関係は、彼女が立つ丘からの視点の高低によって変化し、そこから臨む世界はまるでパラボナアンテナや光学レンズの中にあるかのように縁取られ、存在する。

大きな天体望遠鏡のようなこの縁取りは、ゆっくりと回転する宇宙のプラネタリウムのように、地上を走る道路や列車、ちらつく街の光と同期しながら、空を型取る。ここでは、「望遠鏡」という概念が重要な意味を持つ。望遠鏡は、遠くのものに焦点を合わせ、目に見えないものを目に見えるようにし、目の前の空間を圧縮して平面的にするように、さまざまな役割を果たす。遠い存在が圧縮されて平坦な世界へと融合されるのに対し、 近くに存在するものは遠くに追いやられる。これは、対象そのものを直接表現せずに描写するという、アレゴリーのひとつであろう。

この望遠鏡の概念は、渡辺の作品の根幹を成すものである。遥か彼方の存在を鑑賞者側に引き寄せ、その空間を凝縮し、遠くのものにも近くのものにも接近させる。それはあたかも「手を伸ばせば届く」ような感覚を引き起こし、私たちを大いに魅了する。彼女は星と地上の相関マップのようなものを作り出すことで、宇宙から放出されるエネルギーのパルスとも言える、遠く離れた地点間の関係と連続性を表現しようと試みる。これらの地図は、夕暮れ時の秦野の風景を歩く中で移ろいゆくパララックスのように、私たちの立ち位置によって変化する。また、望遠鏡のように平坦な空間を生み出し、伝統的な日本画に数多く見られる平面的な視点との思いがけない類似性を持つ。2016 年の「Observation Points」のように、彼女の作品の多くは地図上の指標的な役割を持つ。星座に対応する形で空間的に配置された光る風船は、18 世紀の庭園に使われた「viewing stations」のように、視点の微妙な変化を促す装置として機能し、誘われた人々は、この各観測地点から新たな眺望や対象への視野を得るのである。それは一方で、自然現象の景観でもあり、そこには雨粒の音や、舞い落ちる葉など、一見すると無作為な現象の中にある目に見えないマトリックスを読み取ることができる。

私たちはつねに道に迷っている。だから地図を使う。 「Lostness(喪失感)」と「aloneness(孤独感)」は、「Mapping Lost Territories」において重要な形而上学的構成要素である。渡辺はテキストを使い、私という意味の「I」を空の空間として編集し、パンチカードに穴を開けて配置した。それは、存在の空虚感、あるいは、言葉と言葉の間に存在する空間である。モーリス・ブランショは、それを「文学空間」と呼んだ。独唱者による合唱のように、単体は集団と競い合い、完成を成しえる。星が奏でる音楽のように、「調和」が概念として浮かび上がるのだ。

最新作で、歩道に散りばめられたチューインガムの星々を記録した渡辺は、ナンシー・ホルト、ジェームス・タレル、ヴィヤ・セルミンズ、ジョン・ラッセル、アダム・エルスハイマーといった、星にまつわる作品を排出してきた歴代の作家たちの仲間入りをしたと言える。劇作家のヨハン・アウグスト・ストリンドベリは、1894 年に発表したエッセイ「Chance in Artistic Creation」で、奇しくも20 世紀の芸術におけるオートマティズムの展開を示唆した。そして1890 年代、彼はカメラを使わない写真技法を用いて「Celestographs」という作品を創り出したが、この作品上に現れた小さな光の斑点―それらは埃や露、または大気状態が点となり集まったものなのかもしれないが―その中に、ストリンベリは星を見出した。光り輝く星のような写真達は、一方で単なる荒涼とした大地にも見える。ジャン・デュビュッフェが「材質学」で示唆したように、宇宙と地球の物質が衝突し相互作用を起こすという、この二重視点こそが重要になる。その動きは、花粉粒子が原子と分子の衝突によってランダムに動く、ある種偶発的なブラウン運動に対して、境界すれすれのところで危うくバランスを保っている宇宙と戯れるのだ。


エドワード・シェル (アーティスト/キュレーター)
2016年
訳:ペンギン翻訳